三上さんの原稿

一部の人向けに公開します。時間が経ったら消します。

 

七◯年代の初頭は大学のバリケードの中でも歌ったけれど、ゲバ棒振ってる大学生のことは、どこか冷めた目で見てましたね。青森のド田舎から出てきた俺は肉体労働をやりながら、人前で歌ってるのに、親の金で大学に行った都会の連中が、何を騒いでるんだという気持もあった。

あの頃、俺の歌を評価してくれたのは彼らだったけど、連中の言う革命というのが、どこまで本気なんだろうという疑問もあった。

でも、それから三年も経つと、みんな長かった髪を切って、あっさり就職して居なくなった。正直、あの頃は失望しましたね。

 

 一九七一年、「中津川フォークジャンボリー」のステージは今も伝説と語り継がれている。「日本で最もラジカルな歌を歌うフォークシンガー」として脚光を浴び、今なお現役で歌い続ける三上寛さんは六八年、青森県北津軽郡から上京した。

 

俺の育った小泊村では、中学の同級生で高校に進んだのは一割程度。卒業したら地元で漁師になるか、「金の卵」なんて呼ばれて、集団就職で都会に出るしかなかった。

俺の家も昔から漁師の家系。親父は戦争から帰って役場勤めだったけど、爺さんはイカ釣船で樺太まで出かけていた。

津軽半島の突端の村で、爺さん婆さんと両親、兄貴と妹の七人家族で住んでました。土間には漬物の樽や塩や砂糖を入れたカメ。家の外にはイカ干場があった。

十八歳の時、「板前になる」とオフクロに言って、家を飛び出した。寺山修司の「家出のすすめ」の影響もあった。本当は東京で詩人になるつもりだったけど、言えなくてね。

関東に来て最初は神奈川県の藤沢の割烹で板前の見習い。一間の部屋で三人と寝起きしてました。一万五千円の給料の半分を仕送りするって、兄貴には約束したけれど、我慢できたのは半年ほどだった。

ある日、レコード屋の店先で流れる岡林信康の「山谷ブルース」を聞いて、何か大変なことが起きていると感じた。こんなことやってる場合じゃないと思い、「千円で行けるところまで行ってくれ」って言ってタクシーに荷物を積み込んで、東京に向かったんです。

 

 ニ◯一一年にDVD化された田原総一朗制作のドキュメンタリー映像「ドギツク生きよう宣言 ~もう一人の永山則夫」(七◯年放映)には、無名時代の三上さんが渋谷のライブハウスで歌う姿が収められている。

<朝にカラスが 鳴く時は 夜にかならず 人が死ぬ>(「カラス」)。東北の情念を色濃く映す三上さんの歌は後に“怨歌”と呼ばれ、聴く人たちの心を揺さぶった。

 

十五歳の時に親父が死んで、人間は死ぬということを知った。どうせ死ぬんだったら生きなくてもいいんじゃないか。俺はなんで生きてるんだろう。その答えを探すために本を読みはじめた。

本屋に通ううちに見つけたのが、小学校時代の恩師の泉谷明先生が出した詩集。一行目にいきなり「ねじれた陰毛よ」って書いてあって、雷に打たれたような衝撃を受けた。

泉谷先生は俺が小学校の頃、モヒカン刈りで学校に来る変わった先生だった。小泊みたいな田舎でただ一人、アメリカのビート文学を理解する先生から、高校生になった俺はギンズバーグとか、アメリカの現代詩人の存在を知り、詩の書き方を教わりました。

その頃、死ぬ前に親父が買ってくれたギターで、曲もつくりはじめていた。最初は週刊誌の付録で「バラが咲いた」のコード進行を覚えました。

当時好きだった歌手は春日八郎とか三橋美智也ビートルズはニュース映像の中で時事ネタとして知ってた程度。人が失神する音楽って、どんなものなんだろうと思ってた。

 

「東京に行ったら俺もモヒカン刈りにしよう」。そんな三上さんの夢は、中野区の新聞販売店に勤め始めた一九歳の春に実現した。

 

 夕刊を配達に行った先のスナックのマスターが「お前、おかしな頭してるけど何かやってるのか?」と声をかけてきた。俺が「唄を歌ってるんです」というと店に呼んでくれて、ギター一本で「なぜ」という曲を歌ったら、店のお客さん全員が泣いた。

新聞屋の四人部屋のコタツの上で猛然と詩を書き始めた。

当時、東京12チャンネルのディレクターだった田原総一朗さんに会いに行ったのも、そのマスターの紹介。永山則夫を題材にした「ピストル魔の少年」を歌ったらびっくりされてね。田原さんはその場で俺を番組のネタにしようと考えた。当時は寺山修司土方巽がアングラ界の二大巨頭。東北出身というだけで注目される空気もあった。

その後はいわゆるフーテン暮らし。公園で拾ったコーラの瓶を集めて小銭に変え、生卵を買ってその場で飲み込んだりもしてました。

 

 七◯年一月、渋谷のライブハウス「ステーション70」で歌い始めた。店のオーナーはピース缶爆弾の製造犯として知られる牧田吉明氏だった。

 

客層は新左翼新右翼が入り混じった感じ。三島由紀夫の「盾の会」のメンバーもいて、その人の紹介で千葉のコンビナートで働き始めた。

そこでは当時、大卒の初任給が四万ほどの時代に、八万円ぐらい貰えて、個室も与えられた。朝六時から夜九時まで働いて、夜中まで曲を書いた。部屋には二十万円もする机と革張りの椅子を置いて、七◯年代に歌ったほとんどの曲をそこで書きました。

翌年の春にはデビューアルバムもリリースされたけれど、放送コードに触れる曲も多く、大きな話題にはならなかった。

フォークジャンボリーに出たのはその年の夏。新宿ゴールデン街でバイトをしてた時、二日酔いのままバスに乗せられ、会場のそばの小屋で寝てたら「出番だぞ」って起こされてステージにあがりました。

 

  七一年八月、岐阜県中津川で開催の「第三回全日本フォークジャンボリー」には口コミだけでニ万人が集まった。メインステージでは岡林信康加川良高田渡、なぎらけんいち。サブステージでは吉田拓郎小室等らが朝まで歌い続けた。

 

出て行くと最初はバカにされたというか、嘲笑を浴びた。髪の長いヒッピーばかりの中に突然、魚屋のアンちゃんみたいな短髪の男が出てきたから場違いな感じだったんです。

けれど、「夢は夜開く」とか「小便だらけの湖」、よど号事件をテーマにした「飛行機ぶんどって」っていう曲を歌ううちに客の反応が変わり、気がつくと大歓声を浴びていた。

あの時は商業主義に反発する客がステージを占拠したり、帰れコールを浴びせるような空気だったけれど、自分の歌は評価された。物凄い高揚感に包まれたのを覚えています。

 

 当時住んだ早稲田のアパートは、上京後初の電話つきの部屋だった。出演依頼の電話が殺到し、秋には学園祭のスターになった。

 翌七ニ年にはアルバム「ひらく夢などあるじゃなし」を発表。続く「BANG!」(七四年)の録音には山下洋輔らも参加。フリージャズの要素も加え、歌手活動は絶頂を極めた。

 

当時の同棲相手と住んだ祖師谷大蔵のアパートに、無名時代の沢木耕太郎が訪ねてきたこともあった。特に何に載せる訳じゃないんだが、話を聞きたいということで、二時間ぐらい話を聞いて帰った。

そのうち、その相手との間に子供も生まれ、国立に引っ越したんですが、しばらくすると学生運動も下火になり、ライブの客も入らなくなった。

その頃に舞い込んできたのが役者の仕事。偶然出会った深作欣二監督に「キミの体はヤクザの体だ」と言われ、「新・仁義なき戦い」の撮影で東映の京都撮影所に行った。

それまで、さんざんフーテン暮らしをしてきたけれど、撮影所で会う役者さんたちは俺なんかよりもっとフーテンでね。一年や二年、仕事が無くても動じない。肝っ玉が座っているというか、これがアーティストの生き方だと思った。菅原文太さんみたいな大スターでもその匂いは失ってなかった。当時、あの人たちに会わなかったら、音楽はやめてたかもしれない。

 

 二十代の後半にはレコード会社の社員から「ディレクターになって新人を育ててみないか」と誘われた。

 

ツアーで地方に行くと、この間まで客席だった場所がインベーダーゲームになっていたり、時代が変わっていくのを感じました。七◯年代の末期は経済的にもどん底で、国立の三軒長屋で電気もガスも、水道も止められたりしました。

役者仲間だった松田優作にも「歌なんかやめて役者になっちゃえば」と誘われたりね。でも、まだまだ俺はこれから何者かになるんじゃないかという思いがあった。

 

 転機となったのは八一年、テレビ静岡ではじまった情報番組「JAN JANサタデー」への出演だった。

 

昔から俺のファンだった同い年の男がテレビ局に入り「やっと一本好きなことができるようになった。司会をやってくれ」と頼まれた。

これまでの地方局に無いタイプの番組をやりたいと言うので、音楽の情報を盛り込んだものにしようと提案した。

番組は高視聴率を記録し、その後六年続くことになった。毎週土曜日には当時の阿佐ヶ谷の家から新幹線で通いました。番組にはデビューしたばかりのチェッカーズとか、とんねるずなんかも出演してくれた。その後、日本テレビの「イレブンPM」にも出たり、リポーターの仕事も増えて、経済的にも好転しました。

 

 八十ニ年には映画「戦場のメリークリスマス」の撮影でニュージーランドに向かった。ビートたけし坂本龍一デビット・ボウイらと共演を果たした。

 

その頃、再婚したばかりで、大島渚監督からは「新婚旅行のつもりで撮影に来てほしい」と言われました。結局、一人で行きましたが、出番は一日だけで、五日間は観光という贅沢なロケでした。初めての海外で、全てが物珍しかった。

興奮して夜中にオフクロに電話して、「三上家でこんなに遠くまで来たのは俺だけだろ」と言ったら、「お前の同級生はみんなその辺でイカを漁ってるよ」と言われたりね(笑)。

 

 八十年代はテレビ出演や役者活動と並行し、吉祥寺のライブハウス「曼荼羅」で毎月、定期ライブを開催。十年間、一曲も曲順を変えずに歌い続けた。

 

バブルの頃は猫も杓子もニューヨークでレコーディングするのが流行りでね。俺は死んでもニューヨークなんかに行かないと思ってました。今自分が立ってる地面を、どこまで掘り下げるかの勝負だと思って歌い続けた。

同じ頃、三陸地方のライブハウスをしらみつぶしに回ってました。岩手県陸前高田に「ジョニー」っていう店があって、最初に行った時「こんなとこまでよく来てくれた」って大歓迎してくれた。

三陸には井上ひさしが「吉里吉里人」で描いたように、中央とは違う歴史があるという思いにも共感しました。海に面した三陸の町の人には、青森で育った俺と同じ血が流れていると感じることもあった。日本の大衆音楽が失った、土着的な要素が、一番大事なんだということにも気づいた。

 

 八七年、同志だった静岡テレビのディレクターが急死。「そろそろ歌の世界に戻ってもいいんじゃないか」と言われたような気がした。

 

気がつくと、新曲を一つも発表しないまま、八十年代が終わろうとしていた。レコードからCDへ、時代は変わっていた。ある日、業界の仲間から、「お前の昔のレコードが中古盤屋で十五万円で売られてるぞ」という話を聞いて愕然としました。

その頃出てきたのが、いわゆるオタクと呼ばれる連中。ライブに来る若い客が俺の昔の音源を入手して、当時のステージの曲順なんか、俺よりも詳しかったりする。そういうオタクたちをどういじってやろうかと思い、ライブをやったり、詩の教室を開くようになった。

同じ頃、千葉県の津田沼に引っ越した。江戸川と利根川に挟まれた、海に面した一角で、故郷と同じ漁師町の匂いがした。また何か新しいことが出来そうだと思った。

 

 九一年からは十年連続で、アルバムをリリース。ノイズ系のアーティストとのセッションも重ねた。◯四年には初の海外ツアーを敢行。ギター一本で英国、フランスを回った。

 

今はロンドンにカフェオトって店があって、そこを経由していろんな国から声がかかる。九十年代は日本のオタクに救われたけど、二◯◯◯年代に入ると、ヨーロッパのオタクに救われた。俺のポジションは北野たけしや坂本龍一といったメジャーの対極。各国で数百人規模のライブハウスで歌ってます。

不思議なことに、オタクっていうのはヨーロッパも日本も同じ。みんな紙袋にCDをつめて、ライブに来るんです。

東日本大震災の一週間後には、その一年前にオファーがあった、メキシコの音楽フェスティバルにも歌いに行った。余震が続く中、バスを乗り継いで成田に向かった。世間的には自粛ムードみたいなものもあったけど、這ってでも行ってやろうと思いました。

 

 昨年のアルバム「ブログ ツィート フェイスブック」ではSNSという現代的なテーマを題材に、ネット時代の意識の変容を歌った。デビュー四十五周年を迎えた今年、各地のライブハウスを精力的に回っている。

 

メジャーだとかマイナーだとか、従来の物差しが意味を持たない時代がいよいよやって来た。これからはいかに多くの人間を惹きつけるかよりも、一人の人間の心の闇にどこまで踏み込めるかの勝負だと思います。

地方のライブハウスを回っていると、時々、東京なんか関係ないって連中との出会いがあって、無性に嬉しくなる。

エルビスだって、ビートルズだって、元々は田舎のマイナーな連中だったんです。かつて、皇帝ナポレオンを倒したのも、無名の兵士たちだったんじゃないのか。本当に世の中を変えるパワーを持っているのは、現在はマイナーとされている表現者たちなんだ。そんなことを考えながらライブのステージに立っています。

 

 

 

 

「ヤクザと憲法」が面白い

 東海テレビが3月30日にオンエアしたドキュメンタリー番組、「ヤクザと憲法」が局地的な話題になっている。

暴力団対策法の施行から20年を経た今、「ヤクザたちの暮らしはどうなっているのか」というテーマで、組事務所内に「カメラを入れてみた」という。

 

 

video.fc2.com

 

取材前の取り決めとして、

・謝礼金は支払わない
・収録テープ等を事前に見せない
・顔へのモザイクは原則かけない

という前提で取材を行った。

大阪府堺市の住宅街の一角にある組事務所を訪ねると、いかつい風貌の男たち数名が高校野球をテレビで見ている場面から番組は始まる。茶封筒に数万円ずつの現金をつめている一人に「それは何ですか?」と尋ねると「お金や。シノギ。高校野球」との回答。

 階上の部屋に上がると、広々とした畳の部屋に、衣類が整頓されて並べられ、エレクターの棚には刑務所の差し入れで貰った書籍類が整然と並べられている。

「最後の博徒」といったいかにもヤクザな書籍に交じり「犬と私の10の約束」といった本も並んでいる。「刑務所の中にいても癒やしは必要」だそうで、かわいらしい動物を見たりすると心が和むらしい。

部屋の片隅にはバーベキューに使うキャンプ用品があったり、昼飯時には若い組員が豚肉のしょうが焼きを作ってみんなで食べたり、おっさんたちだけの奇妙な共同生活の模様を淡々としたタッチで映し出す。

番組後半には山口組の元顧問弁護士として有名な山之内幸夫氏も登場。暴力団員たちを社会から排除することだけでは、根本的な問題の解決にはならないという主張を展開する。

その主張の是非はともかく、ヤクザだって人間なんだ、彼らにも彼らの暮らしがあるという当たり前の事実に気づかせてくれるこの作品は素晴らしい。というか、よくこんなの撮れたなぁと素直に感心してしまう。

東京のテレビ局では決してオンエアできないだろう。公式なものかどうかは定かではないが、Youtubeで全編が公開されている。